作品について評論

彼の作品は渦巻きのようでもあり、曼荼羅のようでもあり。自然界に見かけるパターンのように、規則性がありそうで、微妙なところが違うのである。彼の作品は魔方陣をもとに、数の様々な性質に着目して色分け、でこぼこを創っていく過程で作品ができるのである。魔方陣とは、正方形の方陣に1からマスメの数までの数を一つずつ配置して、縦、横、対角線のどの列についてもその列の数字の合計がひとしくなるようなものである。中国の紀元前7世紀の3×3魔方陣が最古である。このように古い歴史を持ち、神秘学の研究対象にもなった魔方陣を芸術の対象にしたところに彼の着想が光っている。パターンの研究自体は長い歴史がある。ギリシャ人たちは、結晶にヒントを得て、正多面体が5種類、つまり、正四面体、正六面体(さいころの形)、正八面体、正十二面体、正二十面体に限ることを知っていた。タイル貼をするときには、同じものに限れば、正三角形、正方形、正六角形しか使えないことも知っていた。対称性としては、120度回転、90度回転、60度回転しか出てこないのである。そんな窮屈な世界を広げたのが、アラビア人の数学者、自然科学者であった。

アルハンブラ宮殿に見られるアラベスクには、自然界に見られる多様な対称性が反映されている。正12多角形は花によく見られる対称性である。現在では、17種類に分類された2次元結晶群がすべてでてくることが知られている。彼の仕事も、そのような形で数学の中に組み込まれるときがくるのだろうか?想像するだけでもわくわくしてくる。江戸時代の日本の数学、和算に表れる魔法方陣については小説仕立ての「美しき魔方陣」(鳴海風著)が親しみやすいと思う。

名古屋大学大学院多元数理科学研究科教授 宇沢 達


気まぐれな数と僕と運命の出会い

きまぐれと表現されることも多い数がある。 ルールがあるようでもあり、無いようにも思える。 その気まぐれで神秘的な数に人々は魅了されつづけている。 僕もまたその一人だ。

素数。その数と「1」でしか割り切れない数。 全ての数は素数の積によって作られている。 全ての数は素数の積によって作られている。 過去にレオンハルト・オイラーによってルールの道がひらけ。 カールフリードリッヒ・ガウスよって別の登り口もみえた。 ベルンハルト・リーマンによって数学的出題として世に送り出された。

その後、多くの著名な数学者がリーマン予想という出題の証明に人生を掛けて挑んできた。 しかし未だそのルールを誰も証明した者はいない。 それどころかルールがないという事すら証明出来ずにいる。 神秘といもいえる存在。

私がこの神秘とも言える数に魅せられ、ART表現に取り入れるようになって早20年(1997年)が過ぎようとしている。決してその神秘を解き明かそうなどという大それた妄想はない。

ただ、その神秘的な数が生み出す数々の姿が不思議で美しく魅力的でならない。 それは時に渦であり、宇宙を思わせる。 また時に円であり、これもまた宇宙を思わせる。 他にも風車や卍、人々がシンボルとして崇めて来たような模様を 見せてくれる。

万物は数、ピタゴラスはいい。 数字は美しい、或いは数式は美しいと数学者はいう。 数学を愛する人々のそんな言葉を数多く耳にしてきた。 正直なところ、その意味をあまり理解できず興味も持たずに過ごしてきたと言ってよい。

今は、その言葉に少しは共感できているだろうか。自然界の美しさに目を向ければ誰もがその美しさを実感できるように、 多くの芸術家もまたその魅力を題材に選んできた。

しかしそれら人々を魅了して止まない自然界の美しさの中にも素数や黄金比やフィボナッチ数列といった多くの数学的要素が含まれていることに気付かされてしまう。

銀河や台風、宇宙規模や地球規模は勿論、オウム貝やひまわりの種は何故か螺旋を描きだすのだろうか。 その美しい螺旋に神秘性や美しさを感じる人も少なくないだろう。これらは自然対数やフィボナッチ数列という規則によって、その美しさが成立し生み出されている事がわかっている。

人もまた大自然の一部と考えてみれば何らかの数式やルールを内在しているのかもしれない。 レオナルド・ダ・ヴィンチに代表される偉大なアーティストもデルタグラムやペンタグラム、へサグラムなど数多くのエレメンツを構図の中に取り入れている。

図るという事が美しさを追求する上で最も重要な要素の一つに他ならないからだ。 美しさの中には、そういった目には見えないルールが存在するものだ。 しかし、人間が生み出した物差しでは、はかり知れないものが、その美しさを生み出している。

私は、27年以上前から魔方陣(マジックスクエアー)に興味をいだいていた。 平方根上の桝目に(3×3『1~9まで』、4×4『1~16まで』、5×5『1~25まで』、、、、、、、)桝目に1つずつ数を配し 縦、横、斜めの和が等しくなるように配置した物のことだ。 一見なんのルールも無いかように数字が配列されているが、そこには整然としたルールが存在し、その不思議に魅了されてしまう。

それが魔方陣というルールを元に作られている事を知らなければ、ただの乱数表にしか思えないだろう。   

20年前のある日、いつものように魔方陣上の数字を眺め、誰がこんなも のを考えた出したものかと物思いに耽っていた。 眺めるうちにふと配さていた数字の中で、きまぐれな数、素数が無性に気 になりはじめた。

先ずは塗りつぶしてみることにした。結果は美しさを感じるには程遠く、何の発見も出来ないかのように思えた。 ふと、宇宙の全てのものは回転しているのだからと思いが頭をよぎり点対称で回してみたらどうなるのだろうか。 並べ終えた時、思いも寄らぬ衝撃がそこにあった。

正にそこには螺旋が存在していたからだ。 その瞬間、きまぐれな数、素数と僕は運命の出会いとなった。 そこには何か大切な物が潜んでいるのではないかという直感と衝撃があり、 この先を知りたいという衝動がはたらいていた。 以来15年、僕の作品には題材として素数が使われ、必然か偶然かを問うものとなっている。   何故なら、素数にルールが在るか否かは未だに証明されていない。          

それ故、必然か偶然かという事を問う事になる。文頭で触れたように素数のルールを証明しようなどという妄想や野望はない。 ただ、そこには神秘的な美しさが存在している。 私が素数をART表現の題材として表現する場合、 配置する舞台として用いているパートナーとも言うべき存在がある。

魔方陣だ。 魔方陣もまた、何時出来たものなのかは定かではない不思議な存在だ。 魔方陣だ。 歴史的に言えば、三国志の時代、赤壁の戦いに於いて諸葛孔明が用いた八卦の陣が最も古くよく知られている。 他にも数多くの魔方陣が存在し、風水などを用いた易や街づくりなどに役立てられてきた。

そこには人の力の及ばない大自然に対する敬意と恐怖、恩恵の数々があったからに他ならないと私は感じている。 日本も古の時代からこの魔方陣が存在し、数霊(かずたま)として研究している人々も多く、言葉を数に変換することで、その言葉が持つエネルギーを推し量っている。

つまり、私の作品は未だ解読されていない素数という神秘的な数と魔方陣という整然としたルールを持つものが調和して生まれる未だ解決をみない幾何学的表現と言う事になる。

そこに必然を感じるか偶然を感じるかは見た人に委ねたい。

私は直感的に必然性があるのではと考え現在に至っている。

そうでないと感じる人がいたとしても当然であり初めから同じ答えを求めていない。 私は個展などで数学的な事を尋ねられる事が多いが、数学者では私には確実な事は伝えられない。 ましてや数学界最大の難問、素数の尻尾を捕まえようとしている訳でもない。ただ、私が作り出す作品の中にもオイラーが導き出した答えのように円やπなどと深く関連しているように思えるものがあり、ガウスが導き出した答えのように螺旋が現れる。

人の手で測りしれないものがそこから現れてくる。 その先を期待し進みたくなってしまうもの当然の衝動だ。更にそこから生まれるものが美しくも神秘的、刺激的であり私の創作意欲を掻き立てるものとなっている。  

また、本来記号であるあるはずの数字に好き、嫌いなどの感情が働く人もすくなくはない。 色もまた同様だ。曼荼羅や魔方陣、数列や数式、これらの要素が同時に表現できれば、そこには新しい価値観を構築できるのではないか。 そんな思いが現在の作品作りの基本的コンセプトとなっている。 私が作品を発表する度、じっと長時間に渡り何かを探しているように見入っている人がいる。

私が最初に感じた衝撃に似たものを感じているのではないだろうか。 潜在的に何かあるのではないかと感じているように思える。 私の作品を通して何かを感じっていただけたら幸いだ。 割り切れない、答えが出ない魅力。